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東京2020オリンピック「直前企画」
オリンピックにおける「ソフトボール競技」戦いの軌跡
第4回 2000年シドニー・オリンピック(後編:限りなく金メダルに近い銀メダル)

精力的に海外遠征を行い、オリンピック「メダル獲得」をめざす

仲間であり、良きライバルでもある。オリンピックの「夢舞台」に立つために、全員が全力を尽くし、プレーし続けた

いよいよシドニー・オリンピックが開幕!

ADカード紛失騒動もなんのその……自らのバットで逆転打を叩き出して見せたムードメーカー・田本博子

金メダル最優力のアメリカを倒し、ガッチリ握手を交わす宇津木妙子ヘッドコーチと三宅豊氏(現・日本協会会長)※三宅氏はテレビの解説者として現地入りしていた

日本の「守護神」、クローザーとして5勝を挙げ、ソフトボール版・大魔神の異名を取った髙山樹里

オーストラリアに1安打完封勝ち! 決勝進出を決め、もみくちゃにされる増淵まり子投手(姿が見えない…)

敗れてもなお……その輝きは金メダルに負けず!!!

 1999年1月24日、日本ソフトボール協会は「臨時理事会」を招集。この席上で宇津木妙子ヘッドコーチ(現・日本ソフトボール協会副会長)のシドニー・オリンピックまでの「続投」が正式決定。「協会創立50周年」という節目の年のスタートにふさわしいニュースで年が明けた。
 前年の「第9回世界女子選手権大会」でシドニー・オリンピックへの出場権を手にした日本代表チームは、いよいよ2年後のオリンピック本大会での「メダル獲得」を目標に本格的なチームの強化がスタート。
 2月21日~23日、静岡県天城湯ヶ島町(現・静岡県伊豆市)で「第1次選考会」を実施。世界選手権出場メンバーはこの「第1次選考」を免除され、それ以外の「新たな人材」を求めて選考が行われた。この「第1次選考」には48名が参加。厳しい選考を通過した13名と世界選手権出場メンバー17名を加えた30名がシドニー・オリンピックの「候補選手」となった。
 3月12日~17日、沖縄北谷町で「第7次国内強化合宿」を実施。3月24日~28日、オーストラリア・キャンベラで開催された「カンタス国際チャレンジ大会」には2チームを編成して参加。2チームでの参加が選手たちの激しい「競争意識」に火をつけ、2チームともに「2位」と「3位」という好成績を残した。また、この大会では、6月に台湾・台北市での開催が決まっているジュニア(U19)代表チームから投手2名・捕手1名を参加させるという「初の試み」も行われ、長年の懸案事項であったジュニア層と代表チームの交流が実現した。
 4月~5月は日本リーグのため、代表チームの活動は一時休止。6月8日~11日、静岡県天城湯ヶ島町で「第1次国内強化合宿」を行い、19日~27日にはオランダ・アムステルダムへ遠征。「第10回ハーレムソフトボールウイーク」に出場し、オーストラリア、中国、オランダ、南アフリカといった強豪を相手に見事「初優勝」を飾り、いったん日本へ帰国するや否や翌日には「カナダカップ」が開催されるカナダ・サレーへ向かうという強行スケジュール。7月3日~11日にわたって開催された「カナダカップ」でも4位に食い込むたくましさを見せた。
 また、6月17日~25日、台湾・台北で開催された「第6回世界ジュニア女子選手権大会」では、すでに「日本代表」の経験を持つ増淵まり子、当時まだ高校2年生だった上野由岐子を「Wエース」とするチームが無敵の快進撃。予選リーグ、決勝トーナメントの全9試合を通じて失点はわずかに1。「全勝」のまま頂点へ登り詰め、このカテゴリーでは3度目となる「世界一」に輝いた。
 8月11日~18日、オーストラリア、中国を招いて「ジャパンカップ」を開催。久々の日本での国際大会とあって大きな注目を集める中、神奈川県横浜市、静岡県富士宮市、群馬県高崎市を転戦。「ホームグラウンド」ならではの熱い声援を背に、日本は6勝1分。無敗のまま「優勝」を飾った。

 悲願の「メダル獲得」をめざす日本女子代表チームを、JOC(日本オリンピック委員会)も全面的にバックアップ。その「強力な後押し」もあり、かつてない規模での強化策が次々と打ち出された。
 年明け早々の1月18日~28日、台湾・高雄での「第1次海外強化合宿」を皮切りに、2月7日~22日にはアメリカ・サンディエゴで「第2次海外強化合宿」、3月8日~23日にはオーストラリア・ブリスベンで「第3次海外強化合宿」と矢継ぎ早に3カ月連続で海外遠征が組まれる等、「心身の限界」に挑むかのような猛練習に明け暮れる日々が続いた。
 その一方で、対戦各国の戦力・データ分析や最先端のスポーツ医科学を駆使したトレーニング法や練習法が取り入れられ、用具面でも代表チームのオフィシャルサプライヤーであるミズノが驚異的な飛距離・反発力を有するバットの開発等で積極的にサポート。万全の体制で強化が進められた。

 4月25日~30日、シドニー・オリンピックの戦いの舞台となるオーストラリア・ブラックタウンで開催された「オリンピックの前哨戦」となる「国際女子ソフトボールカップ」に出場。オリンピック出場権を持つオーストラリア、カナダ、中国、ニュージーランドを相手に「準優勝」の成績を収めた。
 5月9日、日本ソフトボール協会は選手強化本部会を招集し、シドニー・オリンピックに臨む代表選手15名を決定。5月16日の理事会で正式承認を受け、翌17日、東京・岸記念体育会館で公式記者会見を行い、15名の代表選手を発表した。
 シドニー・オリンピックに臨む戦いの布陣を整えた日本代表チームは、7月2日~8日にカナダ・サレーで開催された「カナダカップ」に出場。最終順位は3位に止まったものの、手の内をさらすことなく、出場各国の調整状態を「実戦」を通じて最終チェック。結果以上の収穫を手に、オリンピック「本番」へ向けて「最終調整」に入った。
 7月29日~8月1日、ニュージーランドを招いて「オリンピック壮行試合」を行い、神奈川県横浜市、大阪府大阪市、福岡県北九州市を転戦。3連勝を飾り、日本のファンに順調な仕上がりをアピールした。
 また、8月28日~29日には、オリンピックの初戦の相手であり、ほとんどデータのなかったキューバを招き、招待試合を実施。天城ドームで2試合を行い、しっかりと事前データを収集する等、まさにやるべきことはすべてやり尽くし、オリンピック「本番」を迎えた。

 「シドニー・オリンピック」ソフトボール競技が9月17日に開幕。日本は予選リーグ初戦でキューバと対戦。日本は初回、斎藤春香(後の2008年、北京オリンピックヘッドコーチとして金メダル獲得/当時は「斎藤」と表記。現在は「齋藤」と表記している)の先頭打者本塁打で先制。弾丸ライナーでセンタースタンドへ叩き込む豪快な一発でチームに「勢い」を与えると、続く2回裏には田本博子の中前タイムリーで2点目。さらに4回裏には宇津木麗華(現・日本代表ヘッドコーチ)のタイムリーなどで2点を加え、勝負を決めた。
 守っては、先発・髙山樹里が6回二死までキューバ打線をノーヒットに抑える好投。7回表に「一発」を浴び、1点を失いはしたが、大事な初戦で見事な完投勝利。悲願の「メダル獲得」へ向け、大きな一歩を踏み出した。

 予選リーグ第2戦、中国戦を前にして日本に「激震」が走る。前夜、初戦のキューバ戦に快勝した後、田本博子が熱心にも素振りに出かけ、アクレディテーションカード(ADカード:入場許可証)をいったん外して素振りを行ったまま、宿舎に帰ってしまった。すぐに気づき、取りに帰ったものの、ADカードはどこにも見当たらず……。オリンピックではADカードを所持していなければ、どんな理由があれ、試合会場に入ることはできない。すぐにJOCを通じて「再発行」の手続きに入り、試合開始直前、ギリギリで再発行されたADカードが届き、チームをやきもきさせながらも「大事な戦力」を欠くことなく、試合を行うことができた。
 その「動揺」が残っていたわけではないだろうが……初回、先発・藤井由宮子が二死から四球の走者を出し、次打者にレフト頭上を破られ、いきなり1点を失ってしまう。
 一瞬、「嫌な雰囲気」になりかけたが、日本は2回裏、二死二塁から内藤恵美のタイムリーで同点に追いつくと、「騒動」の張本人・田本博子が自らのバットで逆転打を叩き出し、2-1と試合をひっくり返した。常に「笑顔」を絶やさず、センターのポジションまでの「全力疾走」でスタジアムを沸かせ、観戦していた当時のJOC・八木祐四郎会長をして「ありぁ~表彰状もんだな」と感動させた「逸話」を持つ「ムードメーカー」田本博子の「自作自演」の逆転劇で中国に傾きかけた試合の流れは一変。「日本のリズム」「日本のペース」を取り戻した。
 日本は5回表、一死満塁のピンチを招いたが、先発・藤井由宮子をリリーフした増淵まり子が後続をセカンドフライ、三振に打ち取り、ピンチを脱出。
 ピンチを脱した日本は6回裏、一死から山田美葉、小関しおりの連続二塁打でダメ押しの1点を追加。そのまま逃げ切り、「メダル獲得」へ大きく前進する貴重な勝利を挙げた。

 予選リーグ第3戦の相手はアメリカ。日本は先発・石川多映子が立ち上がりから苦しいピッチング。初回の一死満塁、2回裏の一死一・二塁とピンチを招いたが、守備陣の好守もあり、いずれも併殺でピンチを脱出。その後も毎回のように走者を背負いながらも決定打を許さず、強打のアメリカ打線を無得点に封じた。
 日本も5回表に二死一・二塁のチャンスをつかんだが、代打・小林良美が三振。6回表にも斎藤春香、安藤美佐子、宇津木麗華の3連打が飛び出したが、二塁走者・斎藤春香が本塁タッチアウト。なお一死一・三塁とチャンスは続いたが、「代走」に起用された一塁走者・松本直美が盗塁失敗。山路典子(現・日本代表コーチ)のバットに期待がかかったが、リリーフしたミッシェル・スミス(1993年~2008年、日本リーグ・豊田自動織機でプレー)の前に三振に倒れ、無得点。息詰まる展開のまま試合は終盤を迎えた。
 日本の先発・石川多映子はその後も粘りに粘り、6回裏の二死一・二塁、7回裏の二死満塁も凌ぎ、ついに0-0のまま延長戦に突入。9回裏、一死一・二塁となったところで「守護神」髙山樹里に後を託した。その髙山樹里も二死満塁の窮地に立たされはしたものの、冷静なピッチングでピンチを脱し、試合はタイブレークに突入(当時のルールでは延長10回からタイブレークを採用。無死二塁の状況を設定し、試合を行う)。10回表・裏とも両チーム得点なく、試合は11回を迎えた。
 日本はタイブレークの走者を三塁へ進め、斎藤春香の当たりは痛烈なセカンドゴロ。セカンドのドット・リチャードソンがこの打球をはじき、慌てて一塁へ送球したが、これが悪送球となり、日本が待望の先取点を挙げた。さらに一死一塁の場面で安藤美佐子が鮮やかに一・二塁間を破り、浮き足だったアメリカ守備陣がこの打球の処理をもたつく間に一塁走者が三塁まで進塁。二死後、山路典子の打席で意表を突くダブルスチールを敢行。カットに入ったセカンドのドット・リチャードソンが捕手からの送球をはじき、三塁走者・斎藤春香がホームイン。2点目のホームを踏んだ。
 その裏、「王者」アメリカも意地を見せる。クリストル・ブストス、シーラ・ドティの連打でアッという間に1点差。この大事な場面で「同点」「逆転」を焦ったか、打者走者のシーラ・ドティが二塁を欲張ってタッチアウト。アメリカの走塁ミスで一死となったものの、三塁に同点の走者を置くピンチは変わらず……。この「絶体絶命」の場面で髙山樹里が「鬼神」のごときピッチングを見せ、後続を連続三振に切って取り、歓喜のフィナーレ。アメリカはこの試合、実に「20残塁」。攻めても攻めても得点を奪えず……延長11回、日本の「驚異的な粘り」の前についに力尽きた。
 日本のアメリカからの勝ち星は実に30年ぶり。1970年の「第2回世界選手権大会」決勝以来のことであり、まさに「歴史的な勝利」であったが、勝負を決めた延長11回の攻防中、懇意にしていた日本のスポーツ新聞の記者さんから電話が入り、このまま「実況」を続けろと無茶な注文が。当時の携帯電話の国際電話でこんなにつないでいたら、いったいいくら請求されるのやら……と思いながらも携帯を握る手に力が入り、髙山樹里の一球一球に絶叫していた。あのアメリカに勝つ……シドニーと日本を国際電話でつないで大騒ぎを続けるほど、嬉しくも驚きの出来事だった。

 予選リーグ第4戦は「ホスト国」オーストラリアと対戦。日本が押し気味に試合を進めながら、3回表の無死二塁、4回表の一死一・三塁のチャンスに「あと一本」が出ない。
 先発・増渕まり子が5回まで被安打2と好投。6回裏から登板した髙山樹里もオーストラリア打線に得点を許さず、辛抱強く打線の援護を待った。
 0-0のまま、延長戦に入った8回表、四球で出塁した走者を一塁に置き、安藤美佐子が三塁線を鋭く破る二塁打。一死二・三塁とチャンスを広げ、宇津木麗華の四球で満塁。二死後、山田美葉がしぶとく三遊間を破るタイムリーを放ち、待望の先取点を挙げると、その裏、オーストラリアの必死の反撃を髙山樹里が三者凡退に切って取り、メダル獲得に「当確ランプ」を灯す貴重な4勝目を挙げた。

 予選リーグ第5戦はカナダと対戦。日本は初回、斎藤春香が今大会2本目となる先頭打者本塁打。あっさり1点を先制すると、無死一・二塁から山路典子が左中間を破るタイムリーツーベースを放ち、この回2点を先制した。その後はチャンスがありながら得点できず、6回表にようやく山田美葉のソロホームランで1点を加え、3点差とし、勝利を決定づけたかに見えた。
 しかし……その裏、ここまで走者を出しながらも要所を締めるピッチングでカナダ打線を抑えていた石川多映子が、二死二・三塁から「まさか……」のスリーランを浴び、同点。思いも寄らぬ展開にスタジアムの空気は一瞬凍りついた。
 日本は7回裏から「守護神」髙山樹里を投入。3連投の疲れからか本来のキレはないものの、気迫のピッチングでピンチを切り抜けていく。
 迎えた10回表、タイブレークの走者を二塁に置き、田本博子の当たりはショートゴロ。一塁送球の間に二塁走者・内藤恵美が三塁を狙ってタッチアウトになってしまい、一塁に走者は残ったものの、チャンスは費えたかに見えた。この場面で斎藤春香がチームの窮地を救うライト線二塁打を放ち、1点を勝ち越し。その裏、カナダの反撃を髙山樹里が断ち切り、1点差で逃げ切り、4-3で薄氷の勝利。日本はメダルを「確定」させる5勝目を挙げた。

 メダルを確定させた日本は、予選リーグ第6戦でイタリアと対戦。日本は序盤からピンチの連続。2回裏の一死二・三塁は相手の走塁ミスに助けられ、3回裏は二死から3連打されながらセンター・田本博子の好返球で二塁走者を本塁タッチアウトとし、ピンチを脱出。その後は藤井由宮子が走者を出しながらも粘り強いピッチングでイタリア打線に得点を許さず、味方打線の援護を持った。
 ところが日本打線も7回まで10三振を奪われる等、打線が沈黙。試合は0-0のまま、延長戦に突入した。
 日本は延長8回表、斎藤春香の左中間を破る二塁打と四球、野選で無死満塁の絶好機を迎え、山路典子の痛烈な当たりがライトゴロになる間にまず1点を先制。なお一死二・三塁のチャンスが続き、山田美葉のライトへの犠牲フライで三塁走者が生還。この回2点を先制した。
 守っては、藤井由宮子が6安打されながらも要所を締め、完封。無傷の6連勝で最終日を待たずに予選リーグ1位通過を決めた。

 予選リーグ最終戦、日本はニュージーランドと対戦。日本は初回、宇津木麗華が左中間に先制のツーランホームラン! 「主砲」に待望の一発が飛び出し、2点を先制した。
 一方、日本の先発・髙山樹里は微妙な制球に苦しみ、2回表の無死二塁、3回表の一死一・二塁、4回表にも一死二・三塁とピンチの連続。決定打を許さず、得点こそ許さなかったが苦しいピッチングが続いた。
 日本ベンチは5回表から石川多映子を投入。その石川多映子が最終回、ニュージーランドの反撃を受け、1点を失い、1点差に迫られたが何とか逃げ切り、試合終了。苦しみながらも2-1で勝利を収め、7戦全勝の1位で決勝トーナメントへ進出。予選2位のオーストラリアと「決勝進出」をかけ、対戦することになった。

 決勝トーナメント初戦、予選リーグを「全勝」の1位で通過した日本は、予選リーグ2位「ホスト国」のオーストラリアと決勝進出をかけ、対戦。日本の先発・増淵まり子は球威・変化球のキレともに抜群! 「絶好調」のピッチングでオーストラリア打線を完全に封じ込んでいく。
 打線もそれに応え、4回表、「主砲」宇津木麗華が外角高めのライズボールを見事に叩き、打球はレフトスタンドへ一直線。地元・オーストラリアの応援に詰めかけた満員のスタンドを一瞬にして沈黙させる「値千金」の一発を放った。
 1点のリードをもらった増淵まり子はその後も危なげのないピッチングでオーストラリア打線を寄せつけず、被安打1・奪三振10のほぼ「完璧」な投球内容でオーストラリア打線を完封。「ゴールドメダルゲーム」(決勝)進出を決め、団体競技では1976年のモントリオール・オリンピック女子バレー以来の「金メダル」獲得へ「王手」をかけた。
 「ゴールドメダルゲーム」の相手はアメリカ。予選リーグの日本戦で敗れたのをキッカケによもやの3連敗。ギリギリの4位で決勝トーナメント進出を果たした「傷だらけの王者」が、決勝トーナメントに入るとその「本領」を発揮。中国を3-0、「ホスト国」として金メダル獲得をめざしたオーストラリアを1-0で退け、日本への「リベンジ」を果たすべく、執念で「ゴールドメダルゲーム」まで勝ち上がってきた。

 大会最終日、日本の銀メダル以上はすでに確定。あとは「一番いい色のメダル」を手にすることができるか、焦点はその一点のみに絞られた。この偉業の成否は「チーム最年少」の増淵まり子の右腕に託され、アメリカも「切り札」である「エース」リサ・フェルナンデス(1998年・1999年の2シーズン、日本リーグ・トヨタ自動車でプレー)が先発。小雨が降るあいにくのコンディションの中、試合ははじまった。
 日本は4回表、この回先頭の宇津木麗華がリサ・フェルナンデスが自信を持って投じたチェンジアップを狙い打ち。センター頭上を越えるソロホームランとなり、喉から手が出るほど欲しかった先取点を奪い取った。宇津木麗華はこの「チェンジアップ」だけに狙いを絞り、この試合までどんな場面でも決して手を出さなかった。このときのために「打てる!」と思ったボールでも手を出さず見送り、「一振り」でアメリカを仕留めるべく、息を潜めて「その瞬間」を待ち続いていた。宇津木麗華の「勝利への執念」が「王者」アメリカを絶望の淵へと追い込んだ。
 日本の先発・増淵まり子は4回までノーヒット・ピッチング。しかし、5回裏、一死からミッシェル・スミスに死球を与え、次打者の内野ゴロの間に走者が二塁へ進んだ後、ステーシー・ヌーベマンが中前に運び、同点。増淵まり子の許した、この試合「初」の安打でアメリカが同点に追いつき、試合を振り出しに戻した。
 日本は6回裏から予選リーグ5勝を挙げた守護神・髙山樹里を投入。「ソフトボール版・大魔神」の異名を取った髙山樹里が「入魂」のピッチングを見せる。髙山樹里、リサ・フェルナンデス、両投手が一歩も譲らぬ投げ合いを演じ、試合は延長戦にもつれ込んだ。
 迎えた8回裏、次第に強まる雨の中、髙山樹里の投じたきわどいコースがことごとく「ボール」と判定され、2つの四球で一死一・二塁のピンチを迎えた。たまらずベンチを飛び出す宇津木妙子ヘッドコーチ。ナインを集めゲキを飛ばす。円陣が解かれ、守備位置に散る日本ナイン。ベンチも総立ちで声援を送り、このオリンピックに臨むチームの合言葉「心を一つにして」打席に立つローラ・バーグに立ち向かい、髙山樹里の投じるライズボールにチーム全員の「魂」が込められた。イニングを追うごとに日本に厳しくなる判定(のように見えた)、日本が守備につくときだけ激しくなる雨(のように感じた)……「この日のために、この人たちがどれだけの練習を積み、努力してきたか、神様わかってますよね!」と天に向かって祈らずにはいられなかった。
 だが……打球は快音を残してレフト・小関しおりの頭上を襲う。一瞬、ほんの一瞬前進しかかり、慌てて背走しようとした小関しおりが雨に濡れて滑る芝生に足を取られ、転倒。懸命に差し出したそのグラブの先に一度は白球が収まったようにも見えたが……後ろ向きに倒れる小関しおりのグラブから無情にも白球がこぼれ落ちていた。ずっとすっと日本に微笑みかけてくれていた「勝利の女神」が、その「気まぐれ」な本性を現し、最後の最後でアメリカに微笑んだのだ。
 勝者・アメリカが、長い間、チーム全員で祈りを捧げていた。勝利の歓喜より先に祈らずにはいられなかったのだ。「最強の王者」と数々の賞賛と畏怖を欲しいままにしてきたチームがそこまで追いつめられていた。
 そぼ降る雨の中、茫然と立ち尽くしていた日本ナインも意を決したようにベンチへと向かう。宇津木妙子ヘッドコーチがそれを出迎え、熱い声援を送り続けてくれたスタンドへと挨拶へ向かう。泣き崩れる選手たちに、温かい、本当に温かい声援と拍手が贈られた。
 金メダルには届かず……。しかし、表彰台に上がった選手たちは、精一杯の戦いの末につかんだ銀メダルを誇らしげに掲げていた。まだ涙の跡が消えない健気な微笑みの輝きは、金メダルにも負けない輝きを放っていた。

 試合後の記者会見では、勝負を決めた「最後のプレー」に対する外国人記者からの容赦ない追及が小関しおりに集中した。宇津木麗華がそれを遮り、「私たちはチームとして戦いました。チームというものは誰か一人のせいで負けるとか、誰か一人の力で勝つというものではありません。試合に出場している者、ベンチにいる者、全員で戦っているんです」と発したこの言葉は、後に「チーム」として戦うスポーツの素晴らしさを再認識させたとして「第13回ユネスコ・日本フェアプレー特別賞」を受賞(最終的には「第13回ユネスコ国際フェアプレー賞広報部門奨励賞」を受賞)。JOCからも特別功労賞が贈られる等、「チームスポーツ」の素晴らしさを象徴する「名言」として、今も語り継がれている。

 また、この試合のターニングポイントとなった「投手交代」について宇津木妙子ヘッドコーチは、「リードしたら髙山樹里と決めていた。実際、ブルペンにも電話して『行くよ!』と声をかけていたんだけど……」と自らの采配ミス、投手交代の遅れを悔やむ談話を残している。確かに、髙山樹里はこの大会5勝を挙げる大活躍を見せ、チームの「クローザー」として「ソフトボール版・大魔神」の異名をとるほど「獅子奮迅」の働きを見せていた。
 しかし、これに真っ向から「異論」を唱える者がいる。その「当事者」となった増淵まり子だ。「宇津木さんはそういうけど……勝ちに行くなら、私を『続投』させるべきだった」と主張して譲らない。増淵まり子は4試合に登板し、勝ち星こそ1勝だが、あの試合、あの場面まで無失点。実に20イニング目の「初失点」であり、あの同点タイムリーがこの試合許した「唯一」の安打。高校時代の恩師をして「直角に浮き上がっている」と例えるほど「キレッキレ」のライズボールを武器にアメリカ打線を「完璧」に封じていたのだ。
 あれから20年以上の時が過ぎたが……互いにその「主張」を曲げる気配はなく、「論争」に「決着」がつく気配はない。二人は今、日本ソフトボール協会の「副会長」と「理事」として、ソフトボールの将来と未来についても語り合っている。

 予選リーグ・決勝トーナメントを通じて9試合目で「初」の黒星を喫し、金メダルを逃した日本。予選リーグで日本に敗れ、4勝3敗の4位で決勝トーナメントに駒を進め、最後の最後で日本が手にするはずの「金メダル」をアメリカがさらっていったことで、ソフトボール「独特」のページシステム(敗者復活戦を含むトーナメント)も議論の的となった。
 「なんで1敗しかしていない日本が銀メダルなんだ」「3敗もしているアメリカが金メダルなんて……」、試合後、日本ソフトボール協会には、そんな「苦情」「抗議」の電話が殺到し、その対応に追われたとの「後日談」も残されている(アテネ編へ続く)。

(公財)日本ソフトボール協会 広報
株式会社 日本体育社「JSAソフトボール」編集部 吉田 徹

2000年 シドニー・オリンピック 出場メンバー・スタッフ

選手

No. 守備 氏名 所属 背番号
1 投手 藤井由宮子 日立高崎 12
2 石川多映子 日立ソフトウェア 14
3 髙山樹里 豊田自動織機 18
4 増淵まり子 東京女子体育大 20
5 捕手 山路典子 太陽誘電 25
6 山田美葉 日立高崎 27
7 内野手 斎藤春香 日立ソフトウェア 26
8 伊藤良恵 日立高崎 19
9 松本直美 日立高崎 9
10 宇津木麗華 日立高崎 28
11 安藤美佐子 デンソー 6
12 内藤恵美 豊田自動織機 4
13 外野手 小林良美 日立高崎 2
14 田本博子 日立ソフトウェア 1
15 小関しおり 日立高崎 23

※氏名、所属は大会出場当時のもの

スタッフ

No. 役職 氏名 所属
1 ヘッドコーチ 宇津木妙子 日立高崎
2 コーチ 福島泰史 日本精工
3 コーチ兼総務 藤井まり子 日本ソフトボール協会
4 ドクター 小松裕 JR東京総合病院
5 トレーナー 土井良雄二 Doiraスポーツマッサージ治療室
6 トレーナー 金城充知 東北電力
7 マネージャー 吉野弘美 日立高崎

※氏名、所属は大会出場当時のもの

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